「昭和何年かのチリ地震の時もあそこまで波がこなかったからなぁ・・。だから少し油断していたのは事実だ・・・・」。と、宮城県女川町の被災者S君(3月21日ひとりごと参照)の親父さん。
津波以前のS君の実家は海抜からわずかながら高台?に位置していた。まぁ海抜7メートル位だったかもしれない。親父さんの言う「あそこまで」とは津波で流された実家の事を意味しているのだろう。そして現在S君家族は女川町の原発アパートに身を寄せている 。
「ここはオール電化なんですよ!」と、被災地に行く前のTELでのS君。
「オール電化って・・」 当時の被災地は女川町に限らず、まともなライフラインは何も無かった状況なのに彼の言葉が自慢げ?に聞こえて少しだけ笑えた。
女川町の入口付近。同行した南三陸町のC君曰く「地獄の入口だ・・」。
市場の写真で津波の水位がどれほどのものだったのかよくわかります。窓下のラインが引き波の時についた跡(ガレキ等で汚れが強い)だと思われます。ここに限らず市場は大型トラックが出入りするため2階の位置がかなり高く設計されています。「女川町地方卸売市場」震災前は魚介類、特に秋刀魚の水揚げ量は日本有数の市場でした。この市場の目の前がS君の職場でした。
S君の避難場所に荷物を降ろし昼ごはんをご馳走になったんだけど、そのメニューは「カップラーメン」と「コンビ二おにぎり」。ラーメンはわかるけど、お店どころか家一軒も残っていないこの町での食事に「コンビ二おにぎり」って・・・。そう、避難所の配給を我々がご馳走になったと言う訳で。
南三陸町で被災し仙台に避難したC君。今回女川経由で彼の地元まで同行したんだけど、そのC君がつぶやいた言葉が印象的だった。
「女川も大変だわ・・・」