富士山登山、今思えば人生の縮図がそこにあるような気がします。
自分たちの時代の運動会の徒競走ってスタートはみんな一緒だったけど、昔と違って今はスタートラインってみんな一緒じゃ無いって事は事実なんだと思うよ。
ただ、富士山登山が全てじゃ無いけど これを自分なりの人生に例えたらそこには人生の縮図みたいのがあるような気がするんだよね。
はなっから登る人、登らない人はいるけど世の全員が登ると仮定した場合(オギャーと産まれた時が登山口だったら)スタートから登るペースが各々違うのは当然で。その後いろんなアクシデントがあったり、下山道と交わる所で途中下車したり、下山道どころか来た道戻ったり・・。色んな選択肢がある中で、果てしない頂上にたどり着けるか分からない気持ちをかかえたり、たどり着ける自信満々だったり、自信と体力はあるのに天候不順で下山を余儀無くされたり、道中は人それぞれに違う思いや現実があるのも事実で。
そんな時、スイスイ登る人も当然いて。自分が思うにそれはエリートなんだけどそういう人にもやはり努力があったり、天性のメカニズムで簡単にできたり(これは天才)するんだと理解したんだよね。
ただ、自分にはそういう 才能が無いから一歩一歩着実に上を目指すしか無かったんだよ。
ただそれだけ。ひたすらテッペン見て体力の限界を何度も感じながら、休み休み(それも上に行くほど 頻度が多くなり)何しろ登るしかなかった。一歩一歩。たどり着ける自信なんて登頂の瞬間まで無かったのも本音で。
先は見えても、何しろ今が辛くてつらくて・・。たどり着ける自信無かった。登山前は変な話、この店始める前と同じ位にクソ度胸と自信あったもんな。
それに、頂上極めたらきっと泣けるんじゃないかな?とか絶対泣いちゃうだろうなって思っていたんだよ。それが、道中「何で自分は今ここにいるんだろう?」とか、「もう二度とこの場所には来ない」って思いながらふと自分の周りを見て、そして雲の近さと空の青さを見たら「やっぱりここに来て、ここを歩いて良かった」って思うんだよね。そしたら自然と涙が出てきて・・・。結果、頂上着いても泣けなかった。
頂上着いても泣けないってのは、まだまだ先があるって事なんだと。本当の最後じゃぁ無いんだと感じたんだよ。人それぞれ違う思いがあるけど、とりあえず富士山登山に人生の縮図があったとしたら自分の頂はここじゃぁ無いって感じた瞬間でした。
何だかカッコつけた終わりになってしまったけど、マジに最後に言いたい!
「メタボでもやればできるっっ!!!!」